8月は、『古事記』の中でも有名な天の岩屋戸の部分を音読しています。
岩屋戸にこもった天照大御神を、神様みんなで引き出すお話です。
読みが独特なので最初は苦戦していましたが、お話の意味がわかると皆すらすら読めるようになってきました。
今回話のタネに持って行ったのはこちら。
訂正古訓古事記
享和3年(1803)の発行です。
ただ古いものとして見るだけでもいいのですが
「古事記ってすごく古いものなんだよ。みんなは印刷したものを読んでいるけど、ホンモノはどこにあると思う?」
「昔はコピーもできないのに、どうやってみんなが読んだと思う?」
などの質問を投げかけ、考えてもらいました。
私たちは今、古典でも海外の書籍でも、印刷されたものを手に入れて目にすることができます。
でも「みんながよめる形」になるまでに、どんな経緯を経てきたかはあまり意識しないのではないでしょうか。
何百年も前に書かれたものがそのまま現在まできれいに保存されて残るなんてことはまずありません。殆どの場合、原本は失われていて写本をもとに書かれています。
その写本にしても、原本を直接写したものではなく、人が写したものを更に写して、それをまた別の人が写して・・・と、繰り返してやっと残ったもの。
誰かが書き間違えたり、勝手に加筆・修正してしまって元の形と変わってしまう場合もあります。
また、全ての作品が残るわけではありません。
手元にほしいと思う人がいなければ誰もわざわざ写したりしませんし、読みたい人がいても権力者が取り上げてしまうこともあるかもしれません。
「それが残る」ということそのものにも理由が存在します。
今回持って行った本は印刷されたものですが、今のようにささっと量産できるようなものではありません。
木版画と同じ原理ですから、せっせと文字を彫らなくてはいけません。
そんな手間をかけて印刷されるのはいったいどういう本なのか。
こういうことを考えるのは、情報に接する時も役に立つと思います。
その情報が自分のところに流れてくるまでにはいろいろな人の手を経ています。
取材をした人、編集をした人、公表する人、それをあなたのもとに届ける人。
それぞれの思惑や解釈、都合によって、おおもとの情報とはかなり違ったものになっている可能性があります。
ただ目の前の物を読むだけではなく
「誰がこういう形にまとめたのか」
「もともとはどういうものだったのか」
「なぜ自分のもとにきたのか」
ということも合わせて考えられるようになると、さらに理解が深まると思います。
生徒たちにそこまでの話はしていませんが、
「自分の手元にやってくる以前のこと」
を少しでも感じてもらえるといいなと思います。